昨日の道場打ち合わせでは意外な事が、倉持さんと高森さんの口から説明されました。
国際法的には、戦争は「違法」なのだと。先の大戦時は、「侵略戦争」が違法でしたが、現代においては、そもそも戦争自体が違法。許されているのは「自衛」の武力だけ。
これには、小林さんも、僕も「へえーそうだったのか」と。
9条にみられる非戦の誓いに自衛の必要性を許容すれば、それは日本だけの特殊なものではなく、国連憲章に見合ったものにもなると。
なあんだ。護憲派のこだわるような、「世界に誇る日本国憲法」「ノーベル平和賞に匹敵する」なんていう独自性は、少なくとも現代においてはもうないんじゃないの?……と思いました。
いまさら憲法九条の精神とやらを世界に突き付けたところで「ンなもんみんな知ってるよ」「俺たちだってそうだよ」って言われるだけ……なのかもしれません。
同時に、小林さんの従前からの指摘であり、新刊『大東亜論第三部 明治日本を作った男達』でも語られている、国家というものがそもそも国民を戦争の主体とするものであり「国民皆兵」は前提である……ということと、しかし「戦争は違法である」ことが両立する、ないしは二つを整合的に考えるのは、一種のアポリア(難問)かもしれないと思えてきました。
小林さんは、昨日の席で「じゃあベトナム戦争はどうなの?」と疑問を呈しましたが、それはアメリカにとって集団的自衛権の範疇だということで、つまり現代の戦争は、抜け道的な解釈の適用で行われているというのです。
高森さんは「だからこそ歯止めが効かなくなっている」と指摘します。
僕のこれまでの世界認識では、「平和」というものは人間にとっていつか実現を夢見る、目指すべき理想かと思っていましたが、実はいまの世界は表向き「平和」ということになっていて、その実色んな隠れ蓑を用いて戦争が行われている欺瞞社会なんだなと。
そして日本は、平和憲法を隠れ蓑に、その欺瞞に積極的に加担しているということになる。
このあたりが、リベラル派の「平和」観を揺さぶるキーになるのではないかと思いました。
僕自身、戦後社会のリベラル気分の中で若者時代を過ごした身として、揺さぶられましたから!
『新戦争論』の冒頭のごとく、「平和」な社会の中で戦争ゲームに興じている子どもたちの真裏に、既に本当の戦争がへばりついているのかもしれません。